前回の記事では「私は"食事は一人で摂る"派だ」と書きました。いい気なものです。私を知る人たちがそれを読んだら「どの口がそれを言っているんだ」とお怒りになるでしょう。まず、私は自衛隊の訓練中は集団に溶け込み、ワシワシと飯を食っています。軽く戦闘モードに入った時は、エネルギーが異なるのでしょう。
さらに怒られそうなのは、私が若かりし頃、かなりいろいろな方々にお食事をご馳走になったことがあるからです。その節は本当にありがとうございました。
政財界のおじさまたちが、若い女性を同伴して食事に行くわけです。今、振り返れば、あれはおじさまたちの修行の一環だったに違いありません。すなわち、いっさい見返りを求めずに、ただ若年者に本格的な食事を奢り続ける修行です。慈悲の心を養う。
私はできる限りのおしゃれをしてご相伴にあずかるものの、話題についていけるはずもありません。そんな若輩者を見て、おじさまたちは、己が愚かだった頃を顧みる。そしてまた、愚かな者の危険さを思い出して気を引き締める――そういう修行でもあったのではないでしょうか。優秀な男性にとって「おネエちゃんとメシ」とか「後輩と飲み」は、ある程度の回数を経てくると、それほど楽しいものではなくなるはずです。
どこで何を食べたかも、もうほとんど記憶にありませんが、いくつか強烈に覚えていることがあります。その一つは、たぶん大阪市内。細い路地を車で走って行ったところのお寿司屋さんでした。
カウンターだけのお店です。ひっそりと、客は私たち二人だけ。
大将は40代半ばか、50代ぐらい。カウンター席から刺身包丁がよく見えます。
大将は連れの話に相槌を打ちながら身体を傾け、斜め上から魚の切り身を睨みつけ、息を詰めるかのように気合いを入れて、シャっと削ぎ切る。恐ろしい迫力です。
――この人、何人か殺ってたりして。
大将の腹構え、眼光、声。それらが一体となって殺気を感じさせ、刺身包丁が"ドス"に見えてくるんです。いや、大将は人を殺すかのような緊張感で寿司と対峙しているのだろう。寿司キラー。
「へい。このまま」
醤油をつけずにお食べ下さいという意味でした。二貫の握り寿司が乗ったお皿が私たちに差し出されます。ぱくっ。
――うめぇええええええええ!
噛むたびに、口内でなまめかしく躍るネタ。そのサイズ、形状、歯ごたえから表面の質感に至るまで、それはもう、完璧なる官能です。そのネタを支えるかのように、これまた絶妙な分量でハーモニーを奏でるシャリ。噛めば噛むほど、悦びに体をくねらせてしまいそうです。
――お寿司がこんなにもエロチックなものだったなんて!
岡本かの子さんの短編小説『鮨』には「子供は、はじめて、生きているものを嚙み殺したような征服と新鮮を感じ」というくだりがあります。死+官能=寿司、という図式が私の中で出来上がりました。
その日の体験が私の寿司ライフに終止符を打ったことは言うまでもありません。あれ以上のお寿司はどこへ行っても食べられないに決まっているのです。実は、今日、私はスーパーでパックのお寿司を買って食べましたが、それはただの"形骸化した寿司体験"でしかありません。
あの大将のお寿司は衝撃的でしたので、帰宅してすぐお店の名前をメモしました。しかし、もう20年以上前のこと。アメリカへの引っ越しなどで、紙はどこかへ行ってしまいました。探せば、何かのノートに挟まっているのかもしれません。でも、探しちゃいけない気がします。探すのが怖い。あんなにおいしかったのに、二度と行っちゃいけない気がする。ああ、なんという一期一会。
どんなに若くて愚かでも、感じ取れる"気"というのはあります。やっと今、振り返って気づきました。あの時、私は殺られてしまったのだ、と。そういえばあの店は、この世とあの世の境い目のような不思議な空間でした。そのことは、なんとも言えない歓びと共に思い出されます。
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