続きです。
あれから毎日、私はダニエルさん(仮名)のページを見ています。「OFFLINE(オフライン:不在)」という表示がいつか「ONLINE(オンライン:受付中)」にならないか、と待っています。
アメリカの現地時間との時差も考えて、いろいろな時間帯にちらちらと見ていますが、変化はありません。やっぱり、ダニエルさんは亡くなってしまったのでしょうか?
「やあ。また会えて嬉しいよ」
1週間ほど前にアストラルレベルでコンタクトをした時は、そんな声が聞こえたように思いました。でも、その時は、それが私自身の声であるかもしれない、という気もかすかにしました。
この点は、ヒーラーとして見過ごせない、重要な問題です。アストラルレベルで知覚したものが自分自身のものであるなら、クライアントのものと明確に区別すべきです。
「会えて嬉しい」というのは彼の声でもあり、私の声でもあるとしたら? お互いに同じ言葉をかけ合うことも、あり得るかもしれない。でも、かすかに不確かな感じが残ります。
――もっと意識を拡張しなくては。
彼のエネルギー意識は、ものすごく遠い、青い星雲のようです。会おうとする「意志」、会いたいという「感情」、会うために何をすべきかという「理性」の三つがしっかりと揃わなくては、会えないでしょう。自分の勝手な妄想では、いけません。
「これからは、君が僕を読む番だ」
そう言われているようにも感じます。
以前の私は、誰か、見知った人が亡くなると「もうあの人の〇〇が聞けないのか。寂しいな」と思うことがよくありました。それなのに、私はダニエルさんのリーディングがもう受けられないであろうことが、あまり寂しいとは感じないのです。
「昔のように、彼のリーディングを受ける」というのはつまり、生きた肉体を持っている私の能力に合わせて、彼にメールを書いてもらったり、電話で話してもらったりすることです。
それを求めても得られないから落胆するというのは、
――なんだか傲慢じゃない? おこがましいよね。
昨日の夜は、そんなことを思いました。寂しがる暇があるぐらいなら、とっとと自分の周波数帯域を拡げ、自在にチャンネルを切り替えられる能力を磨くべきなのです。そして、それは冒険に出るかのような、希望に似た力を私に与えてくれます。
ダニエルさんは、私に新しいコミュニケーションのツールを与えようとしてくれているのでしょうか? 亡くなった後も。いえ、亡くなった後だから、それは可能なのかもしれません。
この一連の記事は、本当にたくさんの方にお読み頂いていることと思います。今後もダニエルさんのことで発見や気づきがありましたら、ご報告しますね。
★★★
情報は、何も考えていない時に突然、入ってくることも多いです。オンライン上で霊視のサービスをしているサイキックの人々も、そんな感じでリーディングをしているのでしょうか?
私は彼のことをブログに書き始める前に、仮の名前を考えました。ふと「ダニエルさん」という名が浮かび、しばらく他の候補を考えましたが思いつかないために、それに決めました。他には何の意味も、意図もありません。
驚いたことに、彼のSNSの、たった2人の「友達」のうちの、もう1人の名前も「ダニエルさん」でした。
――んっ? また何か、つながった?
見えない世界の探索は、これからも広がっていきそうです。