10年前に買った本を引っぱり出して読み返してみると、すごく面白い。『死後を生きる』という本です。少し長いですが、最初のあたりを引用してみます。
死後の世界がないと思うことは、根本的に絶望に支配されることを意味する。最後はすべてを失う。子孫に託すといっても、子孫は自分ではない。ある時期が来ると、どんなに努力して手に入れたものも失われる。そうした考えに至ると、何事にもじっくり本気で取り組む気にはなれないのではないか。
そういえば昔、居酒屋での飲み会で「人間は死んだら終わりや。虫ケラみたいなもんや。そうや……人間はみんな虫ケラや」って言い出したおじさんがいました。死後の世界なんてないねん、という考え方のようです。
当時、若いバイト生だった私は「そんなことないですよ! 元気出してください!」とおじさんを励まそうとしました。でも、おじさんはうっすらと笑みを浮かべながら「虫ケラ」とくり返します。しょうがないので「まあ、とりあえず、食べましょう」と出汁巻きや唐揚げのお皿をおじさんの方にちょっと押しておきました。
絶望してたのかなぁ、おじさん。今思えば、これは、絶望を抱えて職場の飲み会に参加する大人の姿を私が目撃した、貴重な体験かもしれません。絶望した大人はビールだけをちびちびと飲み続ける。それも、結構、うまそうに。
本の引用を続けます。
たとえば、会社をやめてしまうと、会社にいる間に関わっていたプロジェクトがどうなろうとどうでもよくなる。そこで関係していた人々とも、なんの関わりもなくなり、どうでもいいと感じてしまう。会社がつぶれてしまおうが続こうがそんなことはどうでもいい。もう自分には関心がない。それどころか、部署が変わったら、もう前の部署のことでさえいっさい興味がない。
このような気持ちになるとしたら、それは自分の人生は死に支配されているというのが、根底にあるのではないかと思う。
死んだら終わり。ということは、今、生きて体験することもみな、必ずいつか"終わる"はず。いつ終わるんだろう? 何もかも終わるんだ。だったら、最初から終わってるも同然なんだ――おじさんは、そんなふうに考えていたのかもしれません。だとしたら、確かに死に支配されていると言えそうです。
さらに、絶望に支配されてしまうと、他の人がそうした絶望感を抱いていないことが許せないという感情も芽生えてくる。
死の壁は、人と人との壁をつくるのである。
(松村潔著『死後を生きる』p.11~p.12)
絶望しているおじさんが、場違いな飲み会に参加した理由。それは「職場のみんなも自分と同じように絶望しているかどうかを探るため」だったのでしょうか?
他の人たちはどうしていたかな。たぶん絶望のカケラもなく、趣味の話や噂話や、自分が得意な一発芸を披露したりしていたと思います。おじさんが「虫ケラ」と呼ぶ昆虫たちも、それぞれに畳のへりや壁の隙間に隠れて生息していたでしょう。
揚げ物のにおいとタバコの煙が立ち込める中、空になったビール瓶や食器がガチャガチャと下げられてはお代わりが運び込まれ、酔いがまわった人々は大声になっていきます。そんな中、「死ねば無になる」とつぶやくおじさんの心とは?
「人間は虫ケラや」というつぶやきに「そうやね、ホンマ、そのとおりやね。いったい何の意味があるんやろうね」と返答していたら、いったい、どんな展開になっていたでしょう。あるいは、ここはおじさんの発言を真剣に捉えずに、『手のひらを太陽に』を唐突に歌って盛り上げる方がよかったのでしょうか? ぼくらはみんな いきている。みみずだって おけらだって、って。