新しい自分の作り方

BHSバーバラブレナンヒーリングサイエンス認定プラクティショナー/シカ・マッケンジーのブログ

緑茶事件

自分のことが許せない心理。やはり、トラウマが大きな要因となります。私の場合はトラウマになっても当然の出来事が非常にポジティブな自己肯定感と結びついているため、今日まで生き延びてこれたのだと思います。どこまでも楽天的な遺伝子を受け継いでいるのでしょう。

 

それだけに、自分のちょっとした歪みを探すのに、すごく長い年月がかかりました。わかりづらいんです、トラウマが。なぜか、それがいつの間にか「私の栄光の歴史、武勇伝」にすり替わっている。(おそろしいことだ! と、ひよこ隊が今、つぶやきました。)

 

トラウマを武勇伝にすり替えたとしても、つらいことには変わりません。なぜなら↓

 

過去を思い出すことを自らに許すには、多大な信頼と勇気がいる。

(『身体はトラウマを記録する 脳・心・体のつながりと回復のための手法』ベッセル・ヴァン・デア・コーク著、紀伊国屋書店 p. 29)

 

みじめすぎて、自慢にすり替えなくては語れない。「悲しかったです」とか「つらかったです」と正直に言えない。嘘をついているつもりはまったくありません。勇気がなくて、無意識に「私ってすごいでしょ?」という自慢話として語ってしまう癖がありました。

 

 

そんな私にも、一つ、自慢話として語れない思い出があります。小学生の時に、みんなが自宅から麦茶を持参したのに私だけが緑茶だったために奇異な目で見られ、笑われたことです。

 

たったこれだけでも、子供の心はズタズタに傷つくんですよね。「へえ、緑茶を持ってきたんだね」という程度のからかいを受けたにしても、私にとっては「自分の家庭のすべてを嘲笑された」に等しかったので。

 

引用を続けます。

 

他者から与えられた苦しみと向き合うだけでもつらいのに、トラウマを負った人の多くは、その状況下で自分自身がしたこと、あるいはしなかったことについて感じている恥ずかしさに、心の奥底でなおいっそう苦しめられている。彼らは、はなはだしい恐怖、依存心、興奮、あるいは激怒を感じてしまったがために、自分自身を見下しているのだ。(同上)

 

当時、私がどうしたかは忘れましたが、「緑茶ですが、何か?」とは言い返せなかったんだと思います。家に帰った後も親に言えなくて、泣きながら作文みたいなのを書きました。ちぎったノートの1ページの上に涙がボタボタとこぼれ落ちていたことだけは、はっきりと記憶しています。

 

その作文を親が見つけてくれたのか、しばらくしてから、我が家のお茶も麦茶になり、一件落着しました。私は嬉しかったです。でも、2021年の今日、これを書きながら、

 

 

「みんな麦茶にしてるから、うちも麦茶に」というのは……ちょっと待てや。

 

 

……と思うわけです。すると、心の中で、こんな叫びが……

 

 

お茶ぐらい、好きな種類を水筒に入れさせろ!

 

私の水筒のお茶がほしいなら、文句を言うな!

 

人の茶を笑うな!

 

もっと変なお茶、飲ませたろかコラァ

 

 

……自分を見下すのをやめ始めた反動でしょう。逆に、他人を見下し、攻撃する方に変わりました。

 

まるでシーソーのように、感情のエネルギーが動くものだなぁと、書きながら驚きました。ヒーリングで何を目指していくかというと、シーソーの真ん中。どちらにも振れないで、安定した内面を培うことです。

 

小学生時代の、緑茶事件。私が持ってきていた緑茶を飲んで「うわ何これ!」と叫んだ男子は、その緑茶がおいしくて、うらやましかったのかもしれないですね。今頃、彼は彼で、「小学生の頃、一人だけ水筒に緑茶を入れて持ってきていた女子がいた。おとなしくてかわいくて、やっぱり上品な家の子は違うなと思った」とか言ってるかもしれない。

 

 

いい方向にすり替えているのでは、ないです。当時の真実がどうだったかは、もう確認ができません。「いじめられた」「笑われた」という私の認識を変えることだけが、可能だということです。