ただいま俳優さんのための動詞辞典を翻訳しています。そう、動詞だけを集めた本です。
俳優さんの演技といえば感情表現やセリフがまず思い浮かぶかもしれません。それも大切ですが、身体でおこなう動作や行動はさらに大事です。「愛しているよ」というセリフひとつでも、たとえば、ラーメンを作りながら言うのと相手に手錠をかけながら言うのとでは、伝わる意味が大きく変わります。
それについてはまた後日おはなしするとして、今日はある言葉について感じたことを書いてみます。overlookという動詞にあてる日本語訳を探していて、「見過ごす、見逃す」などの意味の他に、こんな訳語があったのです。
見て見ぬふりをする
ほう……
面白い日本語だ。
ちゃんと「見て」いるのに「見ぬ」「ふりをする」。
目はものを「見て」視覚情報を脳に送り、脳はそれを認識しています。「ああ、小鳥がいるぞ」。
ところが、「見て見ぬふり」では、そこから先の流れが違います。
脳の中で情報が捻じ曲がり、受け取った情報とは違う情報を出すのです。
「え、小鳥? 知らないなぁ」とか「何もいないよ、この辺には」とか。
これは積極的な嘘? それとも、ごまかし? どちらにしても、見て見ぬふりをした時、人の心には罪悪感が生まれます。その罪悪感を消すために、私たちの内面では"巧みな工作"がなされます。
「知らないふりをした方が相手のためでもあるし」
「見たと言えば後で面倒なことになる」
「だから見て見ぬふりをしてあげたんだ」
ああ、急に悲しくなってきた。そこに愛はあるのかな。
私たちは、見たものを、見たままに感じて表現することを、たぶん、子供の頃に厳しく禁じられてきたはずです。「そんなことを言ってはいけません」「相手に失礼ですよ」と。
それは確かに思いやりでもあるけれど、生きていくうちに何百回も、何千回も、いえ、おそらく何万回もそういうことをくり返し、いつしか本当のことが表現できなくなったとしたら……とても苦しいのではないかな、と思います。
ヒーラーの訓練は、こういうところにもあるかもしれません。正直に、見えるものをストレートに受け取ること。自分の中で捻じ曲げてしまわずに、できる限り、ストレートに表現をして返すこと。
それはたまに、まるで「見えないものを見る能力」のように働く時があるかもしれません。
「見て見ぬふり」をしているうちに、いつしか「見えなく」なったもの。
ヒーリングセッションは、それを探す旅なのかもしれません。